聴(Tsukuba Communications)

ひとつの分子が世界を変える 基礎化学はチャンスに満ちた世界

関口章教授(数理物質系)

有機ケイ素化合物ー特殊な物質のように思えますが、シリコーンといえば誰でも想像がつくでしょう。クッション材、潤滑油、コーティング剤といった汎用品から電子部材や医療用などの高機能素材まで、現代社会に不可欠な物質です。そのカギとなる元素がケイ素。数理物質系の関口章教授は、有機ケイ素化合物の研究を通して、化学結合論において教科書を書き換えるほどの大きなブレークスルーをもたらし、今もなお、その新たな可能性に挑み続けています。

実はとても身近な元素、ケイ素

 地球の表層部、つまり生物の生活圏内で一番多い元素は酸素、次がケイ素です。地殻を構成する岩石の主成分はケイ素で、酸素と結合した状態で存在しています。人類岩石を使って道具を作り発展してきました。そう考えると、人間とケイ素は人類誕生以来の長い付き合いだといえます。

 しかし、人聞がケイ素を本当に有効な形で使えるようになったのはほんの100年ほど前。ケイ素と酸素の結合が非常に強く、それを絶つことが難しかったためです。ケイ素を単結晶として得る方法が確立され、多様な有機ケイ素化合物が合成できるようになって加速的に応用が広がり、今では太陽光発電やスペースシャトル、スポーツウェア、建築材料、エレクトロニクスなど、あらゆる用途で利用され、私たちの生活を豊かにしています。

23年かかった
ケイ素ーケイ素三重結合
 元素周期表を見ると、ケイ素と同じ属(第14族元素)です。一般に、同族の元素はよく似た化学的性質を持っていますが、ケイ素と炭素は全く異なる挙動を示します。そのひとつが多重結合の生成。炭素の場合は、炭素同士で二重結合や三重結合をつくり、エチレンやアセチレンができます。しかしケイ素は原子半径が大きく結合距離が長いことから、多重結合は形成できないというのが常識でした。
 ところが1981年にアメリカで、ケイ素同士の二重結合が合成されるという大きなブレークスルーがありました。これが、ケイ素同士の三重結合(ジシリン)実現への挑戦を始めるきっかけです。三重結合は高分子や環状化合物など、さまざまな化合物を合成するための出発となる加豪結合です。そこにケイ素が含まれることで新しい材料開発の可能性が格段に広がります。

 この研究が実を結んだのは23年後、2003年のクリスマスのことでした。それまで、アセチレンに見られるように、多重結合における原子間の電子分布は対象的であると考えられてきましたが、むしろその方が稀であって、本来は非対称であるという概念を初めて提唱し、実際に安定なジシリンの合成に成功、実験的にこの概念を証明したのです。

 

化学の歴史に名を刻む

ジシリン合成のニュースは、従来の化学結合論を覆すものとして、サイエンス誌や科学の専門誌はもとより、ニューヨークタイムズなどの一般紙も含めて世界中に伝えられました。この業績は科学の教科書を書き換えました。その中でもよく知られている「Organometallics」(Wiley-VCH発行、2006年版)では化学年表にも記載され、科学研究の歴史に新たなマイルストーンを築きました。

 科学の進歩や新たな発見によって教科書が書き換わることはあり得ないことではありません。しかし、化学結合のような基本的な概念が変わるというのは、それに関連する研究すべてに影響を及ぼすわけですから、とても重大な出来事です。

新タイプの蓄電池へ

 研究生活のほとんどの時間をつぎ込んだジシリン合成の研究では、その過程でも重要な研究成果が生まれています。ゲルニウムやケイ素のカチオン(陽イオン)を合成したことです。これらも1980年代から存在の可能性が盛んに議論されていましたが、この研究が1997年にサイエンス誌に掲載され、論争に終止符が打たれました。

 カチオンが電子1個を受け取るとラジカルに、ラジカルが電子1個を受け取るとアニオン(陰イオン)になります。ケイ素の場合、この反応は電子のやりとりによって容易に、しかも可逆的に起こり、それぞれの状態が安定的に存在できます。そこで現在は、企業と共同で、この性質を利用した蓄電池(ラジカル電池)の開発に取り組んでいます。

 パソコンやハイブリッド車などに使われるリチウムイオン電池は長時間使用ができる反面、出力を上げると発火の危険があります。一方、ケイ素ラジカル電池は電子の移動だけで反応が進むので充電が速く、安全に大出力が得られることから、新しいタイプの蓄電池として期待されています。

大学は「共育」の場

 基礎化学の魅力は、たった一つの分子で世界を変えられること。そのチャンスは誰にでもあります。今までなかったものをつくる。ナイロンやポリアセチレンがそうだったように、そこから無限の応用が拓け、飛躍的な技術革新がもたらされるのも夢ではないのです。

 しかしひとりでそれを実現することはできません。先述の蓄電池開発もそうですが、基礎研究に携わる人こそ、その成果を活用できる分野の人々とのコラボレーションが大切です。化学そのものの学問的な面白さもありますが、自分の研究フィールドだけに閉じてしますと、新しい知識や考え方に触れることができず、貴重なチャンスを見逃してしまいます。

 その意味では学生の力も不可欠です。同じ研究者として学生から学ぶこともたくさんあります。大学は教員と学生が共に成長する場所。「教育」ではなく「共育」だと考えています。ひとつだけ学生にアドバイスするとすれば、教科書に書いてあることがすべてではないということ。それはいつでも覆る可能性があるのです。