聴(Tsukuba Communications)

文脈を理解する国語辞書 ひとりひとりの能力とニーズに応える言語支援ツールへ

代表者 : 矢澤 真人  

人文社会系 矢澤 真人 教授

言葉の意味を調べたり漢字を確かめるために辞書を引く、という行為はめったにしなくなりました。電子辞書ですら、もはや時代遅れの感があります。しかし一方で、言いたいことを適切に表す言葉が見つからなかったり、会話の途中で単語をど忘れしてしまったときに、助けてくれるツールはまだありません。日本語の文法や単語の用法を理解し、その時々の文脈に応じて瞬時に言葉を補ってくれる、そんな国語辞書の登場が現実味を帯びてきました。

■ 辞書の役割
 かつて、国語辞書は誰もが持っているものでした。電子辞書が広がってきた頃には、目的の検索語周辺にある言葉も学べるなど、紙媒体の辞書の方が望ましいという議論もありました。しかし、そもそも辞書は教材や読み物ではなく、不足する言語情報を速やかに提供するツール。その機能が充実していることが重要です。媒体が何かは問題ではありません。
 辞書を引く時、調べたい単語がわかっているとは限りません。説明したいことをどう表現すればよいかわからない、ど忘れしてしまった言葉を思い出したい、というような場合の方が多いのではないでしょうか。しかも、調べる作業のために、本来の言語活動は多少なりとも中断されてしまいます。そう考えると、従来の辞書はあまり使い勝手のよいものではなかったと言えそうです。
 パソコンやインターネットが普及し、辞書を手元に置く必要はほとんどなくなりました。モバイル機器も一般的になり、誰もがいつでもどこで
もいろいろなことを手軽に検索できます。そんな中、存在感の薄れた辞書も、より高度で柔軟な言語支援ツールへ、着々と進化を遂げようとしています。

■ ひとりひとりのニーズに対応
 言語、特に母語は、意味が通じればよいわけではなく、場面や目的に適した言葉遣いや表現技法を使いこなすことが大切です。その際、子どもと大人とでは、同じ事柄についてでも違う表現になるのが当然ですし、書く・話す・読む・聞くといった言語行動によっても、言葉の使い方が異なります。一口に「単語の意味を調べる」と言っても、その状況は様々です。個々のユーザーの能力や用途に柔軟に対応できる辞書、というのはとても現代的でチャレンジングな研究テーマです。
 例えば、流行語やインターネット上に特有の表現。親しい人同士なら、むしろ言いたいことが的確に伝わるかもしれません。しかし目上の人に対して、あるいは文化の異なる地域で使うと、思わぬ失敗になってしまうことがあります。そういう言葉は、意味だけでなく適切な用法も提示することが肝心です。また、文章を書く時には、最も適切な表現をじっくりと探したいでしょうし、会話の最中なら、素早く検索しコンパクトに結果が見られるデバイスが好都合です。新しい辞書開発には、ソフト、ハード両面からのアプローチが必須です。

■ 人の思考パターンに近づける
 頭の中では様々な言葉やイメージを有機的に連想します。方向転換や飛躍も生じます。そうして考えをまとめていくものです。機械的に単語を並べ、網羅的に語釈を載せるという既存の辞書とは、言語を探索するメカニズムが根本的に異なります。その「ずれ」が使い勝手の悪さを生んでいると考えられます。検索手順を人の思考パターンに近づければ、より「自然な」言語支援につながるはずです。
 そこで取り組んでいるのが、文脈変換というアイデアです。入力された音や文字列をそのまま扱うのではなく、文脈(話題)を認識して最もふさわしい単語や意味を出力するという考え方で、パソコンの日本語入力システム開発の分野では、20年ほど前から提案されています。漢字変換においてはかなり精度が向上しており、この技術を辞書にも応用しようとしています。
 日本語は同音異義語が多い上、いくつもの語釈がつけられる単語も珍しくありません。ですから辞書で調べても、求める情報にすぐにたどり着けないこともしばしばです。複数の候補の中から、文章や会話の内容、流れに合った単語や語釈を選び、相応な詳しさで示してくれる、そんな辞書が目標です。

■ 言語能力を定量的に測る
 国語辞書で「分析」という単語を引くと、「複雑な現象・対象を単純な要素にいったん分解し、全体の構成の究明に役立てること」(新明解国語辞典第7版)とあります。特段、難しい説明ではないように思われます、この語釈のうち小学校の教科書に出てくるのは「全体、構成、役立てる」の3語だけ。小学生が大人用の辞書を引くと、ますますわからなくなってしまいます。
 私たちは、主に小学校から高校までの教育を通して、徐々に語彙を増やし、多様な文型を習得します。同じ日本語でも、発達段階によって使える単語や表現が違うわけです。ですから言語支援においては、文法的な正しさだけでなく、世代ごとに使える単語や文型に制約があることも考慮しなくてはなりません。
 小学校、中学校、高校の各段階について、教科書に使われる単語の種類や出現頻度、作文に書かれる文型などを統計的に調査すると、そういった制約が明らかになります。「複雑、機能、要素」などの抽象名詞は、小学校ではほとんど使われず、高校で急激に語数が増えます。それにつれて、使える文型も広がります。
「どうして私が◯◯したいかというと、△△したからです」と表現していたものが、「私が◯◯したいと思ったきっかけは、△△したことです」
「△△したことが、◯◯しようと思うきっかけとなった」など、より論理的で豊かな表現ができるようになるのです。

■ 辞書作りは学際プロジェクト
 論理的な思考をするには、正しく言語を使い、適切な表現でその思考を記述できることが大前提です。また、グローバル化が進む時代にあって、日本語と他言語の間にある表現の違いや言い換えも意識しなくてはなりません。これからの国語辞書には、母語としての日本語を上手に使うための言語支援という視点が不可欠です。
 多様なニーズに応える国語辞書となると、どうしても電子型になります。その開発には、言葉の意味や文法、世代間の語彙や表現能力の違いに関する言語研究に加えて、文脈変換による検索システムの構築や、使いやすいインターフェイスのデザイン、すなわち教育学、心理学、工学など幅広い分野との融合、さらに他の辞書との連動やデバイス設計では、出版や情報産業との協働も含まれます。これは、人文社会研究の在り方にも大きな変化をもたらすはずです。
 モノとして手に取ることは減っても、国語辞書が改訂されるたびに、新たに収録された単語や用法がニュースになりますし、編集者のこだわりに触れるのも興味深いことです。しかしもはや、私たちが辞書に求める実用機能は、そういった言葉そのものへの関心をはるかに超えています。次世代の国語辞書はどんな姿になるでしょうか。その実現に、期待が高まります。