聴(Tsukuba Communications)

「なぜ眠るのか」その謎が解ける夜明け前の予感

代表者 : 柳沢 正史  

睡眠はわからないことだらけ
 睡眠は、健康な状態のままで意識を失い活動を停止する可逆的なプロセスです。これに相当する行動は、哺乳類や鳥類だけでなく、魚類や爬虫類、昆虫にもあります。眠っている間、その生物は完全に非生産的で、食料を調達することはおろか、身を守ることさえできなくなります。非常にリスキーな状態ですから、進化論的にはそのような行為はないほうが有利なように思われます。なのに、睡眠をとらない種は存在しません。大きなリスクにもまして、1日のうちの数時間、意識を失うに値する利点があるはずです。たとえば、楽器演奏などで長時間練習してもできなかったことが、一度寝ておきるとできるようになっていたりします。それに類した経験は誰にでもあるはずで、睡眠が知識・スキル・エピソードなどの記憶強化に何かしらの関与をしていることは認められています。しかしほぼすべての動物に共通する行動として、睡眠がどのような機能のために保存されているのか、全くわかっていません。
 また、眠気、睡眠の量や深さがどのように制御されているかも完全なブラックボックスです。眠らなければ眠くなるし、長く眠っても毎日ほぼ一定の時間帯に再び眠くなります。一方で、非常事態や興奮状態の時には一時的に眠気が消えたりもします。このように、ホメオスタティック(環境の変化に関わらず生体の状態を一定に保つ)、概日周期的、情動的な制御などが睡眠にあることは、表面的な現象としてはよく知られています。しかし、それらが脳の中でどのように表現されているかは、実は何も解明されていないのです。

オレキシンの発見で睡眠研究へ
 そもそも睡眠研究へ進むきっかけとなったのは、オレキシンという神経伝達物質を偶然、発見したことです。その時点でオレキシンの機能は全く不明でした。やがて、オレキシンをつくれないマウスがナルコレプシーという睡眠疾患になることがわかりました。睡眠と覚醒のスイッチングがたったひとつの遺伝子異常でうまくいかなくなってしまうのです。これは睡眠科学における大きな進展でした。
 これまでの睡眠研究は、主に臨床ベースで進んできました。睡眠がうまくいかないと、昼間の活動に影響するだけでなく、高血圧や脳卒中などのリスクにもなります。不眠に悩まされている人は多いですし、最近は睡眠時無呼吸症候群が注目され、睡眠専門医も増えています。また、うつ病やアルツハイマー病など、睡眠障害が主要な兆候として現われる疾患も少なくありません。しかしほとんどの場合、睡眠薬の処方や生活指導など、対症療法的な治療にとどまっているのが現状です。睡眠のメカニズムがわかれば、副作用や依存性のない新しいタイプの睡眠薬開発につながり、睡眠障害に対する医学的な対処方法が多様化し、さまざまな疾患の治療も可能になります。

世界初の睡眠基礎研究拠点
 昨年末、筑波大学に新たに設置された国際統合睡眠医科学研究機構は、睡眠のメカニズムを探る基礎研究を行う世界初の研究拠点です。世界中から優秀な人材を集め、トップレペルの研究を進める体制を整えつつあります。化学・生物学・創薬などの分野も積極的に取り入れ、医療域が融合した研究分野を確立し、最終的には総勢200名近い研究者やスタッフを抱える予定です。
 またここでは、研究は・もちろんのこと、運営や人事などのプロセスの面で、旧来の大学のルールにとらわれない新しいシステムの構築にもチャレンジしています。すでに、教員数や報酬の決め方、職位によらないフラットな組織づくりなどに取り組んでいて、この点でも大学にとって良い前例になると考えています。

仮説のない科学

睡眠のメカニズムを探る研究には仮説がありません。仮説をたてられないほど見当のつかない探索を行う分野なのです。ですから、睡眠は遺伝的に規定されているはずだという前提だけを頼りに、フォーワード・ジェネティクスいう研究手法を使って根気よく網羅的にスクリーニングするしかありません。それにはまず、睡眠異常(眠りすぎや眠らないなど)のミュータント(突然変異個体)をつくります。ランダムに突然変異させたマウスを大量につくり、その中から睡眠異常の個体を見つけ出して、その原因遺伝子を突き止めます。このようなミュータントが発生するのは数千匹に1匹ぐらいの確率ですから、これは気の遠くなるような作業です。けれども、いったん何かが見つかれば、それを足がかりに次々と新しい発見が得られる可能性を秘めています。

睡眠のメカニズム解明前夜
 しかし実際に、こういったデータ先行型のスクリーニング研究を行うのは、研究者としてとても勇気のいることです。何年も成果が出なこいともあり得るし、資金や人手もかかります。世界的にも睡眠の基礎研究に携わる人が少ないのはそのためでもあります。ですから、WPIのような特別な機会を与えられたことは大きなチャンスなのです。もちろん、成果に対する厳しい評価も受けますから、それに応えていくのは責任重大ですが、それ以上に、睡眠の謎が一挙に解明される夜明け前のような、大きな期待感があります。何もわかっていない、暖昧模湖としているととこそが、現在の睡眠研究の最大の魅力です。

 

柳沢正史教授(医学医療系)